三井三池炭坑炭塵爆発事故の前後


SATURDAY, 6. JANUARY 2007, 09:58:54

三井三池炭鉱 

三池炭鉱は、福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にまたがる一帯に点在して、1960年代までは日本産業史・労働史において巨大な存在であり続けた。このかつてはエネルギーの供給源として石炭積み出し港湾の三池の港には、今日、輸入石炭が積み上げられ、石炭産業は産業史という「歴史」の中で語られるようになった。そして、この炭鉱は、炭塵爆発事故・炭鉱争議・外国人労働者への待遇・囚人の徴用などの暗い産業史の記述で埋めてもいる日本屈指の炭鉱であったのだ。60年の炭鉱争議の終結及び63年の炭塵爆発事故とCO患者の後遺症の深い傷跡において、三池炭鉱は日本のエネルギー政策を転換させ、自らの未来を閉ざした廃墟にかくれてしまったが、石炭に変わって石油文明の黄昏が2050年「ピークオイル」で予兆される本日、改めて巨人”三池炭鉱”を産業史的に再評価することが必要ではないだろうか。

三井三池炭鉱爆発事故

1963年11月9日、この福岡県大牟田市の三井三池炭鉱で炭塵引火による爆発事故が起き、一酸化炭素中毒などで458人の死者、839人の重軽傷者を出した。坑内には爆発当時1220余人がおり、うち400人が脱出したのだったが、そのうちからもCO中毒後遺症の患者が多発した。炭車が暴走して高圧線にふれてスパークし、引火したものとみられる。これは、それに先立つ三池争議を招いた会社の合理化で保安対策が怠られ「起るべくして起った炭坑災害」といわれた。
その労働条件は、当時、エネルギーが石炭から石油へ大きく変化するなか、石炭を採掘する三井鉱業は1959年から1960年にかけて大量指名解雇による合理化を強行しようとした。三池労働組合の労働者側は、全国の労働組合の支援を得て313日にもおよぶ労働争議、いわゆる「三井三池闘争」が行なわれた。この三池闘争は1960年3月15日、緊急中央委員会で分裂、二日後、批判勢力が第二組合を結成、警察と暴力団が介入した久保清さん刺殺、6月15日に全学連が現地動員をかけた*が。9月9日、三池労組中央委員会で中労委斡旋案を受諾、11月1日三池闘争終結をもって闘いの幕を閉じた。結果的には、労働側が敗北し大規模な合理化が強行された。争議前後で人員は15,000人から10,000人に削減された。しかし生産量は8,000トン/日から15,000トン/日に増大、1人あたりの能率は2.8倍に上昇していた。もちろん、生産コストの切り下げのため、保安要員も減少していったなかで、炭塵爆発が起こった。その爆発事故は、各所に落盤を引き起こし、さらに一酸化炭素が坑内に充満して後最大の炭坑災害となった。
*当時設立なったばかりの九大生協がその兵站部を担った(小職は学生常務理事)
三池炭鉱は、炭層が有明海側に傾斜しているため、時代とともに坑口が山側から海側へ移り変わっていき、有明海海底350〜450m付近の炭層を採掘していた。その三川鉱第一斜坑口から約500m入った坑内で爆発は起きた。爆風と炎は坑口に一旦向かうと直ぐ引き返し各所に落盤を引き起こし、さらに一酸化炭素が坑内に充満して、戦後最大の炭坑災害となった(荒木調書)。この爆発は炭塵爆発と呼ばれるものである。これを防ぐ技術は本事故から50年も前に確立されており、わが国では大正以来事故発生は皆無に近く、戦後は1回もなかった。炭塵は扱いやすい危険物ともいわれ、常に清掃し水を撒いて湿らせておくことによって爆発を防ぐことができる。「粉塵爆発」は、空気中に広がった粉(炭)塵がすぐ燃え上がり、それらが集まることで爆発状態になってしまう。炭塵爆発はこの粉塵爆発の1種である。争議前に実施されていたこの簡単な炭塵爆発防止策が、争議後はほとんど実施されなくなっていた。生産第一主義による保安要員の大幅削減がもたらした結果である。
また本来、組織内のチェック機構であるべき組合も、平和協定(ストしないかわりに手当がつく)に基づいて生産に協力する立て前上、爆発防止策の未実施を見過ごしていた節もあるとされる。事故後操業は中断され、ただちに救助体制が取られるとともに、事故原因の調査が開始された。事故原因の調査後、応急対策として保安体制が強化され、操業が再開されたが、1997年3月廃坑に至った。

事故が発生した当時、僕は福岡県社会部南筑福祉事務所の職員であった。事故の報は、福岡市の下宿先への県庁社会部からの緊急動員電話で知らされ、現地には、当時の革新県政の状況から、組合・社会党調査団との混成体制で入った。炭塵塗れの遺体が水道水で洗浄されて俄づくりの棺桶に入れられて、遺体安置のための体育館に運び込まれて、そこに駆けつけた遺族たちと顔を合わされる一部始終を記録するのが、小職の当夜の役目であった。体育館の片隅で、簡単なミーティングを終えた夜半、仮眠をとるために炭住集会所に置かれた三池労組現地対策連絡事務局へ向かったが、そこで、社会党青年組織構成員であった労組青年部(社青同大牟田支部)
の面々と、悲しみに沈み怒りに震えている炭住を激励する意味でも、日刊の情報紙を出そうということになり、その翌朝配付のために「人間のs叫び」と題した詩を福岡地本から見えていた情報研究所長藤田(暁)氏と、「おれたちは人間なのだ、生きる権利がある」と書き上げて、謄写版に刷り上げられたわら半紙のビラを三池労組青年部の者たちが小脇に抱えて飛び出していく姿を横目に、柳川にある職場に出勤の為に西鉄大牟田駅へと急いで集会所を後にした。その情報紙「人間の叫び」は、その後社会党青年組織大牟田市部によって発刊が続けられ、その12月10日の集会のとき会場に展示された、当時の現地配付史料集綴りにNo.18,19号を手にすることが出来た。(なお、三池CO研究会の大原氏(大牟田市職)がその「人間の叫び」0号を見つけ出そうとされている。)
事故後の小職の職務は、死去された遺族や被災をうけた患者のひとの住まいを所管する大牟田(福岡県)・荒尾(熊本県)の市役所の支援のほか、こちらが所管する郡部を職域にしていたので、全国からの流入してきていた炭鉱労務者遺族等への福祉手当支給のための書面要件があった。当時から多くの炭鉱が閉山されて、ジプシー化した坑夫たちが大牟田周辺に流入していたのである。

CO裁判のに立ち上がった患者と家族たち

「炭じん爆発—三池三川鉱の一酸化炭素中毒 」原田正純 (著)
「閉山—三井三池炭坑1889-1997」奈賀悟(著)岩波書店

1968年になると炭労は三井鉱山から提案されていた「CO患者及び遺族の取扱いに関する協定」に正式調印。三井鉱山は「これでCO問題はすべて解決した」と宣言、また春には三池CO中毒者が続々と就労を始めたが、現実には多くの後遺症をもった患者たちが残され、家族の苦悩や家庭破壊に対する償いは何一つなされなかった。CO中毒死者の遺族たちは三井三池鉱に損害賠償を請求(民訴)。そして、1972年11月16日、CO患者の村上正光、松尾修とその2家族4名は「加害企業の責任追及と補償義務の履行を迫り、企業の犯罪性を大衆の眼の前に暴露することができる唯一の方法」として、三井鉱山に対し損害賠償請求訴訟を提訴。翌年4月、CO患者の大坪金章、大坪ミヤ子、藤末又義、藤末ツギエの4名が松尾らによる損害賠償請求訴訟に合流した。
これに対し、すでに炭労と三井鉱山の間の「協定」に正式調印していた三池労組は原告団長松尾薫虹を組合から除名したが、三池労組の三池CO現地共闘会議・三池CO被災者の会もまた、災害発生10年目の1973年、三井鉱山らに加害責任と「CO患者、遺族らの医療、生活補償」等を掲げて420名のマンモス原告団の集団提訴に踏み切った。その経緯は、http://miike-coalmine.net/data/co.html に報告があげられている。1987年7月、三池労組主導の三池CO中毒訴訟原告団が死者400万円の補償で和解案受け入れ14年ぶりに決着をみたが、和解を拒否した32名(沖克太郎元組合長ら)は新しい弁護団と新原告団を結成した。
1993年3月26日、松尾さんら単独組の判決及びマンモス訴訟の和解拒否派32名に対する判決が下され、三井鉱山の過失責任を認めるとともに、原告全員をCO中毒後遺症と認定したが、家族に対する慰謝料は認められず、松尾さんら単独組は控訴。マンモス訴訟の和解拒否派は控訴せず三井も控訴しなかったことから判決が確定した。1997年3月30日、三井鉱山は百余年の歴史を閉じることによって大災害発生時に被災者・家族・遺族らと結んだ企業内補償である「三池CO協定」を一方的 に破棄し、入院中の重度のCO被災者の試験外泊患者の送迎(月に一度)を打ち切り、「今までどおり」との三家族告訴については二家族のみ高裁で勝利。三井鉱山上告するも最高裁受理せず、2002年6月勝利が確定した。

三井三池炭鉱炭じん爆発事件史料集成 全Ⅱ期の刊行

「三池炭じん爆発事件史料集成 第1期」(マイクロフィルム)が刊行され、その推薦文を宇沢弘文(東大名誉教授)、黒田光太郎(名古屋大)及び桂木が書いた経緯がある。そして今回のⅡ期の刊行で全刊行がなり、「炭じん爆発事件史料集刊行記念シンポジウム:いま、三池から問う韓国そして日本〜」が以下の要領で12月10日福岡市において開催された。

日 時: 2006年12月10日(日)午後2時30分
場 所: 福岡市中央区天神1-4-1 福岡国際ホール(西日本新聞会館16階)

シンポジウムの主な内容

■ビデオ上映「炭じん爆発実験」(9分/内部映像)  解説:美奈川成章

■基調報告「なぜ、いま三池か 史料集刊行の意義」
黒田光太郎・名古屋大学教授

■報告「中国と韓国の炭鉱事情と労災問題」
○中国:シュハン・スンさん(中国人民大学労働人事学院中国社会保障研究セン
ター教授)
○韓国:ウォン・ウンホさん(在宅じん肺患者協会事務局長)
○三池:松尾?虹さん(元三池CO家族訴訟原告)
司会:古谷杉郎(全国労働安全衛生センター連絡会議事務局長)

主 催:三池CO研究会(会長=星野芳郎・元帝京大学教授)
三池炭じん爆発事件研究会
(会長=原田正純・熊本学園大学教授 副会長=美奈川成章・弁護士)
共 催:全国労働安全衛生センター連絡会議(議長=天明佳臣・港町診療所所長)
後 援:柏書房

問い合わせ:福岡城南法律事務所(電話092-771-3228)

http://www.kashiwashobo.co.jp/cgi-bin/bookisbn.cgi?isbn=4-7601-2660-0

本史料集成は、三池CO研究会が収集した史料に加え、大牟田市立図書館所蔵史料や出版に際して提供を受けた史料群を全二期にわたり公開された。 日本の近代化の推進力となり、戦後日本経済の復興を中核で担った三池炭鉱で起きた約40年前の事故は、高度成長期の繁栄の歪んだ姿を象徴するとともに、いまも同様の災害が繰り返されている中国などアジア各国の人たちに向けた貴重な教訓として伝えられなければならない。

最新コメント

Kenji Katsuragi # 14. May 2009, 06:52

人間の叫びは当夜(翌明け方)ガリ版刷りされています。
FAXのが1号とすると「0(ゼロ)号」になりますかね。 

文面にはその覚えの一部が転載されて継がれています。

「栗木や安田や、池田や新聞やいろんな奴のいうことを聞いていて思う。
俺たちは思う! この怒りと悲しみと、そして放心との混沌とした頭の
中で思う。いま心の底からつきあげてくる気持はこれだ!と思う。
俺たちは人間なのだ。もっと人間らしい喜びや哀しみをかみしめて働く
権利がある。俺たちは人間なのだ。もっと人間らしく働く権利がある。
俺たちは人間なのだ!。もっと人間らしく働かせろと要求する権利がある。
俺たちは人間なのだ。
俺たちの悲しみの中には、この叫びが燃えている。死んだ仲間の、残さ
れた仲間のこの願いが燃えている。おさえても、おさえても、この地底の
叫びは、俺たちの胸の奥から突き上げるのだ。俺たちは永遠に忘れはしな
い。この怒り、この悲しみ、このつき上げる仲間の叫びを。」

ガリ版藁半紙刷りでした。文面は、明日の早朝出勤を控えて、宮浦坑炭住
集会場だったか、そこの現地対策本部で、私が藤田暁男氏(社青同福岡地
本情勢研究所長:当時経済学部の研究助手)の助けを借りて書きなぐり、社
青同大牟田支部:三池鉱夫)がガリ鉄筆をもったのでした。朝ぼらけの弔
いの靄の中、青年たちが三々五々半紙束を小脇に去っていくのを見送って
私は西鉄大牟田駅へと足を急いだ。

kenjikatsuragi について

Prof. Emeritus of Toyama University Twitter http://twitter.com/kenjikatsu 放浪佳人、時々日比谷公園界隈w(さっぱり放射能ホットスポット恐怖症で、北陸新幹線開通も軽井沢あたりで足が止まってしまう)。 Retired: 齢70まで教壇にたっていました。 http://jp.linkedin.com/in/csanet で以て「私の履歴書」。私の履歴書(業績編) http://ow.ly/3D0yv
カテゴリー: 未確定 パーマリンク

三井三池炭坑炭塵爆発事故の前後 への2件のフィードバック

  1. kenjikatsuragi より:

    これは、2007年にOpera-Blogにて公開されていたものの転記である。

  2. kenjikatsuragi より:

    Kenjikatsuragi's Blog でリブログしてコメントを追加:

    この2015年7月、ユネスコ世界資産委員会で、「明治日本の近代化産業遺産」の一部としていくつかの施設が”三池炭鉱”の産業史的再評価されて登録されます。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中